『白い城』より(3)

第6センテンス。

Çok hoşlandığım, ama bir deftere de kopya etmeye üşendiğim için, elyazmasını, genç kaymakamın bile “arşiv” diyemediği o mezbeleden, beni gözaltında tutmayacak kadar saygılı hademenin güvenini kötüye kullanarak, kaşla göz arasında çantama tıkıp çaldım.

たいへん気に入ったが、ノートに写しとるのさえ面倒だったため、若き郡長までが「古文書館」というのをためらうあのゴミ捨て場から、私を監視下に置くにはあまりに礼儀正しい用務員の信頼を悪用して、手記を瞬く間にカバンの中に押し込んで盗んだのだった。

わたしはこの発見に大喜びしたが、かといってノートかなにかに写し取るのは面倒だった。そこで、郡役所の若い所長も”文書庫”と呼ぶのをはばかる紙くずの山から、これを拝借することにした。わたしを見下ろすことすら遠慮する、礼儀正しい雑用係の信用をいいことに、すきを見て手記を鞄に押しこんだのである。

原文は長い一文、それが宮下訳では3つの文に分割されている。読者にはより分かりやすくなり結構なのだが、原文のリズムはこうなるとほとんど残っていない。


なお宮下訳のうち、ここでは3箇所に物言いをつけたい。

まずhoşlanmakは、気に入る/好きになる 、という程度の意味なので、ここでは単に「本が気に入った」ということだろう。なぜ手記を失敬する気になったかといえば、一つにはçok hoşlandığım için =非常に気に入ったため、であり、もう一つにはbir deftere de kopya etmeye üşendiğim için=ノートに写しとるのさえ面倒だったため、である。「この発見に大喜びした」と、原語の意味を大幅に越える余分な情報が付け加えられた場合、この並列関係がうまく成り立たないのではなかろうか。

kaymakam はトルコでは県知事と並び、官選による(国によって指名される)郡の長であり、郡長あるいは郡知事と訳せる。市長を市役所の所長とは呼べないのと同様、郡長(郡知事)は郡役所の所長とは間違っても呼べない。

gözaltında tutmakは一般的には、(被疑者を)勾留する、あるいは(仮釈放や執行猶予中に)保護観察下に置く、という意味である。döküntüといいmezbeleといい、この手の皮肉を効かせた表現はパムックの特徴の一つでもある。もちろん「見下ろす」は間違いで、göz+altında (目の下で) という語から早合点してしまったものと思われる。



あまりに気に入ったため、かといってノートに写しとるのさえ面倒だったため、若き郡長さえ「文書庫」というのをためらうあのゴミ捨て場から、私を監視下に置くには礼儀正しすぎる用務員の信頼を悪用して、手記を瞬く間にカバンの中に押し込んで失敬したのだった。

『白い城』より(2)


第3、第4センテンスより。

Sanırım, yabancı bir el, kitabın birinci sayfasına, sanki beni daha da meraklandırmak için, bir başlık yazmıştı: “Yorgancının Üvey Evladı”. Başka bir başlık yoktu.

察するに外国人の手だろう、本の第一頁に、まるで私の関心をもっと惹こうとするかのように題名が書かれてあった。「蒲団屋の義理の息子」それ以外の題名はなかった。

写本の最初の一葉には、作者とは別の者の筆跡で『布団職人の継子』と見出しが付されただけで、他に表題らしきものがなく、それもわたしの好奇心を一層かきたてた。


今度は、原文の2文が1文に統合されている。が、おそらくそのためだろう、Sanırım=思うに/察するにsanki=まるで/あたかも、のニュアンスが宮下訳では排除されてしまっている。そして、一読したところ、拙訳と宮下訳の両方ともほとんど意味的な差異はないように思えるが、次に説明するように、実はこの一文の意味するところが微妙にずれてしまっているのだ。

すなわち、原文では「まるで私の関心をもっと惹こうとするかのように題名が書かれてあった」とあるのに対し、宮下訳では「と見出しが付されただけで、他に表題らしきものがなく、それもわたしの好奇心を一層かきたてた」もう少し言い換えるならば、「見出し以外に表題らしきものはなく、それがわたしの好奇心を一層かきたてた」となり、視点が原文とは異なってしまっているのである。


なお、私のyabancı bir elの解釈はもしかしたら甘かったのかもしれない、と宮下訳を見ていったんは悩んだ。Yabancıにはもちろん、外国の/外国人/よそ者、の意味があるが、同時に、見慣れぬ/見知らぬ、という意味もある。宮下氏はしたがって、本文を書いた作者の筆跡とは違う、見知らぬ筆跡という意味に解釈されたわけである。一方、私の解釈では、「わたし」はこの時点ではまだ本を開いていないので、一見して推測されるのは外国人の筆跡だろうということであった。



察するに外国人の筆跡で、本の第一頁に、あたかも私の好奇心を一層かきたてるように題名が書かれてあった。「蒲団屋の義理の息子」それ以外の題名はなかった。

『白い城』より(1)


前回記述した観点から、早速、比較検証を始めてみたい。まずは冒頭の一文から。原文、2006年に公開した私自身の試訳、宮下両氏の訳、の順で掲載し、疑問点を提示した上で、最後に現時点での私自身の決定訳を書き留めておこうと思う。


Bu elyazmasını, 1982 yılında, içinde her yaz bir hafta eşelenmeyi alışkanlık edindiğim Gebze Kaymakamlığı’na bağlı o döküntü “arşiv”de, fermanlar, tapu kayıtları, mahkeme sicilleri ve resmi defterlerle tıkış tıkış doldurulmuş tozlu bir sandığın dibinde buldum.

この手記は、1982年のこと、毎夏一週間にわたり中に籠ってほじくり回すのを習慣としていたゲブゼ郡庁所属のあの廃物「古文書館」で、勅令、登記簿、裁判記録や公的台帳類と一緒にギュウギュウに詰め込まれた埃だらけの箱の奥底で見つけた。

一九八二年、わたしはゲブゼ郡役所の閑散とした”文書庫”でこの手記を発見した。わたしは毎年夏の一週間をここで過ごし、勅令集や不動産権利書、法廷文書、あるいはその他の公的な帳簿がぎっしり詰めこまれた埃だらけの小箱を隅々まで調べるのを習いとしていた。この手記はその片隅に埋もれていたのである。

前回のブログで説明したように、当時この試訳にあたっては、原文の構造、文の長さ、節の順番までも含め、原文を最大限、日本語に反映させることに苦心した。とはいえ、これらの条件の中で訳語を選び取っていく作業は、苦しくも楽しく達成感のある作業ではあった。反対に、宮下訳のように、長文を節に分解し、いくつかの短文にまとめて書き直す作業は、一種のテクニックと相応の時間が要求され、とても私の手に負えるものではない。そして、弊害もなくはなさそうだ。この例のように、修飾関係が崩れてしまう可能性がある上に、原文にない語を補う必要がどうしても出てきてしまうのだ。

ここでは、長い修飾節ばかりを含む1文が3つの短文に書き直されている。一読すると、何の問題もないように見えるのだが、一つの修飾節が分解されたことで、間違った修飾関係が生まれてしまっている。

拙訳で説明するなら、「毎夏一週間にわたり中に籠ってほじくり回すのを習慣としていたゲブゼ郡庁所属のあの廃物」までが「「古文書館」」を、「勅令、登記簿、裁判記録や公的台帳類と一緒にギュウギュウに詰め込まれた埃だらけの」までが「箱」を修飾しているわけだが、宮下訳を読むと、「隅々まで調べるのを習いとしていた」のは、「文書庫」ではなく「小箱」だということになる。毎年、一週間も調べるほどの蔵書量がある「小箱」とはいかなる代物か。


なお、Döküntüとは、 ゴミ/がらくた/くず/廃品/廃物/散乱した物/残骸・・・というような意味である。「閑散とした」では、この文書庫に対するイメージがかなり異なってくるのではないだろうか。人気(ひとけ)は少ないながら、どちらかというと整然としたイメージが私には沸く。

ちなみにEşelenmekは、引っ掻き回す/引っ掻き回して捜す/掻き回す/捜し回る・・・という意味であり、後ろの方でやはり「紙くずの山」(宮下訳)、「ゴミ捨て場」(拙訳)という表現が出てくるので、「閑散とした」では不適切といえるのではないだろうか。



この手記は、1982年のこと、わたしが毎夏一週間にわたり中に籠って引っ掻き回すのを習慣としていたゲブゼ郡庁所属のあの廃物「文書庫」で、勅令、土地登記簿、裁判記録や公的台帳類がぎゅうぎゅうに詰め込まれた埃だらけの箱の奥底で見つけた。

文芸翻訳はこれでいいのか―オルハン・パムック『白い城』邦訳に思う


物語/ストーリーが伝わればそれで十分なのだろうか。物語が読みやすい日本語で再現され、誤訳が最小限に止められていれば、作者独特の文体や語り口は無視されてもよいのだろうか。
あるいは、作者自身が実際には書いていない言葉やフレーズがそこここに挿入されていたとしたら―。


現役の日本語講師であるにもかかわらず、その訳文が「日本語になっていない」等とこき下ろされることの多かったこれまでの翻訳者、和久井路子女史から、海外文学ファンやパムック・ファンに大いに期待と不安を抱かせつつ、オスマン朝史の研究者、宮下遼氏(父親であるフランス文学者、宮下志朗氏との共訳とされる)へと晴れて翻訳者交代となった本作品。早速、読了された読者のブログやtwitter上で公開されたいくつかの感想に目を通す限りでは、まずまずの及第点が与えられた翻訳であることが窺える。


昨年12月の出版以来、目を皿のようにして『白い城』の評価・感想・レビューを追いかけた。トルコ語文芸翻訳者を目指す者として、また2006年の10月から12月にかけ、翻訳練習と銘打って『白い城』の試訳を公開したことのある者として、出版社が白羽の矢を当てた宮下氏の手になる翻訳文の内容・質はどのようなものなのかという点に、自然な心理として注意を払わずにはいられなかったからである。内心を包み隠さずに言うならば、出版レベルにあると藤原書店が認めたことになる宮下氏の翻訳に、自分の翻訳は(いまだ実務翻訳の勉強中であった約3年前の訳文ではあるが)匹敵できているのかどうか、検証したいという気持ちもあった。おそらく研究者、しかもオスマン朝史専門であれば、私が苦心して訳語を引っ張り出した箇所にも、難なく正確な訳語を当て嵌めているはずだろうし、そうでなければいけないはずだ。いったいどんな訳語が採用されたのだろう、自分は上手く訳せていただろうかと、試験の模範解答を見て自分の試験用紙を採点する時のような不安と緊張感に包まれながら。
もちろん、抜粋された訳文があれば対訳し比較検証してみる狙いであった。Amazonの「なか見!検索」で冒頭の一部が公開されるのを心待ちにしていたところ、数日前、ようやく確認できたので、早速抜粋ページを開いてみた。

そして、軽い失望を覚えた。宮下氏の翻訳に「負けた」とか自分の誤訳を大量に見つけた、というのではない。(もちろん誤訳はある。誤訳か誤訳の可能性が高い箇所は、宮下氏の訳文と突合せることで、「序」中、3箇所はあることに気づいた。中には初歩的な誤訳もある)

まずはパムックの、あの長文。修飾詞がいくつもいくつもぶら下がる独特の長文が細切れに切断され、巧妙に前後が入れ替えられ、妙にすっきりとまとめられてしまっているのだ。一見、「読みやすい」。これなら確かに「読みやすい」だろう。が、これが、果たしてあの「オルハン・パムック」なのか?という問いが自然に沸いてくる。長文でありながら、声を出して読めばリズミカルで抑揚に富んだ文章。この長文とリズムあってのパムックであり、この長文がパムックの味わいの一つでもあると考える私は、『白い城』試訳時に、自分に一つのルールを強いていた。文章の長さは極力変えないこと。いかに長文であれ文を途中で切ったりせず、助詞や接続詞の使い方を工夫してそのままに訳出すること。そしてトルコ語のリズムや抑揚も最大限日本語の訳文に反映させること。そのため、私が行ったのは、いったん訳出した後で、トルコ語・日本語の順で声を出して一文ずつ朗読し、リズムや抑揚を確かめることであった。訳出を進めるうち、怠慢からその努力を怠るようになったものの、冒頭から数ページは特にこの点に注力したので、尚更、宮下氏の訳文を読んで拍子抜けがしたのである。
物語の内容、盛り込まれている情報は変わらない。しかし、パムックの文章という気がしないのだ。これでは和久井訳の方が、パムックの文体を紹介する意味では、はるかに勝っていたのではないかとさえ思えてくる。


第2点として、原文にない補足説明と解釈が訳文に盛り込まれ、文が膨らまされている点。実務翻訳の暗黙のルールに縛られているせいだろうか、原文に「何も足さない、何も引かない」のを旨とする私には、「こんなことをしてもいいのか!?」という疑念が沸く。「意訳」という解釈もあるが、原文に書かれていない単語やフレーズを、想像あるいは類推、あるいは読者への親切という言い訳のおせっかいによって追加したり、その必要性も見当たらないのに、ある単語を似て非なる他の意味を持つ単語にすりかえるような身勝手な行為は、文芸翻訳では許されるのだろうか。
あくまで私の憶測に過ぎないが、おそらくこれは、トルコ語の原文を目の前にしている遼氏の仕業ではなく、仏語訳を模範訳として、片っ端から遼氏の日本語訳に赤を入れていっただろう志朗氏の仕業ではないだろうか。研究者として日常的に大量のトルコ語文献に目を通し、歴史家として史料に忠実に対峙しておられるだろう遼氏が、一歩間違えれば誤訳とも受け取られかねないこの手の膨らませ訳を自ら望んで行ったとは考えにくい。研究者・翻訳者の大先輩でもある父親のアドバイスを、若き遼氏には固辞する勇気がなかったのではないか。


この拙ブログを偶然にであれご覧になったトルコ語上級者もしくは翻訳者の方、あるいは『白い城』をいち早く読了された読者の方で、翻訳の質という点で和久井訳との相違に何らかの感想を抱いた方は、上記の2点についてどうお考えになるだろうか。

次回から数回にわたり、「序」部分の対訳(原文−宮下訳−拙訳)によって生まれた疑問箇所を順番に取り上げ、上記のような視点で自分なりに比較検証を試みてみたい。ブログ訪問者の方々にも一緒に考えていただければ幸いである。

(なお、トルコ語文献の「読み」には慣れてらっしゃるだろう宮下氏の訳には、さすがに誤訳は少ないと思われるので、「誤訳か意訳か」というカテゴリーが適切かどうか分からないが、便宜上このカテゴリーに入れておくことにする。)

"Masumiyet Müzesi"を読む(3)

 現在、158ページ。

 本作品は、ノーベル賞受賞後にはじめて発表された長編小説であり、世界中の読者から待望された新作になるわけだが、ひょっとしてこれは“失敗作”に当たるのではないか、という危惧を抱きつつ読み進めている。
 あくまでここまでの印象だが、技巧的には、前作の『雪』を超えるものではなく(構造的には『雪』を踏襲したもの、といえるだろう)、しかも『雪』が全編を通じ、貧しさや極限的状況のなかに見出せる神性、聖なるものを暗示させる美しい表現に満ちていたのと対照的に、本作品は頁が進むごとに、豊かさ、上品さ、幸福な外見のなかに宿る俗性、俗物性が鼻につきだすような―パムック自身が確信犯的に狙ったものであろうが―、そんな作品になっていると同時に、パムックお得意の饒舌なまでのディティール描写が常に同じトーンで容赦なく繰り返される―とりわけ性的描写や人物描写に顕著なのだが、風景として決して美しいとは思えぬ、むしろ陳腐とも思える描写が執拗に繰り返される―せいで、正直、マンネリで少々ウンザリ、と言いたくもなってくる長尺ぶりなのだ。
 

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 さて、気を取り直して・・・
 前回触れたように、パムックは、70〜80年代当時のトルコにおいて、若い娘が恋人と”sonuna kadar gitmek”=「最後まで行く」こと、あるいは男が娘を”sahip olmak”=「自分のものにする」(「手込めにする」つまり「無理やり犯す、強姦する」の意味で使われることもある)ことの意味を、登場人物の言葉を借りて「社会人類学的」に説明しようとしている。



 「第15章 若干の厭わしい人類学的真実」より

 「自分のものにする」という表現を用いたからには、私の物語のベースを成し、一部の読者と一部の博物館の来訪者にはもとよりよく知られたこのテーマに、いまいちど戻ることとしよう。とりわけ何世代も後の人たち、たとえば2100年以降の博物館の来訪者がこのテーマを理解するには困難を強いられるだろうと予想しつつ、「人類学的」と称される類の若干の不愉快な―昔の人は、厭わしいといった―知識を、再度、怖れることなく今ここで提供しなければなるまい。

 西暦紀元後1975年においても、イスタンブールがその中心となるバルカン諸国、中東および南西地中海沿岸諸国において、若い娘の「純潔」は、結婚するまで守られねばならない貴重な宝であることに変わりがなかった。西洋化、近代化といわれる過程と、さらには都市化の結果、若い娘たちが次第に晩婚化していったことで、イスタンブールの一部の地区では、この宝の実際の価値が少しずつ下がり始めたのである。西洋化支持派は、文明化と並び称す近代化の結果、この道徳が、さらにはこの話題そのものが忘れ去られていくだろうと楽観的に信じていた。ところが当時、イスタンブールでもっとも西洋化した裕福な層においてさえ、若い娘が結婚前に別の男と「最後まで」行き、性交渉を持つということには、いくつかの重大な意味合いと結論とが見出せた。

 a) 引き出せるもっとも軽い結論としては、私が物語のなかで語ったように、若いカップルがともかくも結婚をすでに決意していることにある。西洋化した裕福層同士で婚約した、あるいは「結婚を前提とした交際」を周囲に公認させた「真剣な」カップルが結婚前に性交渉をもつことは、スィベルと私の場合同様、まれにではあれ大目に見られていた。未来の花婿候補と結婚前に寝るような、上流階級に属し教養を身につけた娘たちは、自分たちの行動を、相手に感じている信頼ゆえというよりも、風習など歯牙にもかけないほど現代的で自由であるがゆえだと説明したがったものである。

 b) このような信用が確立していず、「交際」がまだ公認されていない場合には、男側からの強要、愛情の高まり、アルコール、愚かさ、度を越した勇気など広範な理由によって若い娘が自分を「抑えきれず」処女を捧げたならば、名誉の概念に伝統的な意味で結びついている必要のある男というものは、娘の尊厳を守るために彼女と結婚しなければならなかった。若い頃の私の友人メフメットの弟アフメットは、今ではすっかり幸せな夫婦となっている妻のセヴダと、このような過ちの結果、後悔を怖れつつ結婚したのだった。

 c) 男が逃げて娘と結婚しなかった場合、かつ娘が18歳未満であった場合、怒り狂った父親が娘を女たらしの男と結婚させようと裁判所に訴えることもあった。このような裁判は、時々メディアの注目の的になり、その際、新聞各紙が「誘惑された」といって掲載する娘の写真は、目のところが―このような恥ずべき状況で、本人と特定されないよう―黒い太線で隠されるのが常だった。同様の黒いテープは、警察の強制捜査によって捕まった売春婦や、姦通を働いたり辱めを受けた女性の新聞掲載写真にも使われていたため、その当時トルコで新聞を読むということは、目をテープで覆われた女性の写真ばかり集められた仮面舞踏会のなかを徘徊するようなものであった。なにしろ、「軽い」と見なされている歌手や芸人、美人コンテストの参加者以外に、目をテープで覆われていないトルコ女性の写真は新聞にはほとんど掲載されなかったし、広告でもムスリムでない外人女性や外人の顔が好んで用いられていたのである。
 (p.72〜74)


 (d)以下、(4)につづく。

"Masumiyet Müzesi"を読む(2)

 只今、84ページ。


 “恋愛小説“と名乗るには、あまりに不思議な恋愛小説である。パムックの技巧にかかると、ロマンティズムの片鱗もない恋愛小説(ロマンス)が出来上がるようだ。

 男女の出会い(再会)から急速な恋愛に進展、泥沼化、やがて訪れる破局(悲劇?)、そして残された者による回想・・・いわば定番の起承転結を備えているにもかかわらず、この調子でさらに500ページも続くかと思うと、少々先が思いやられる滑り出しなのだ。

 男の回想という型式をとっているためだろう。始終、男の視点から、それも今どきの言い方でヘタレぎみな30男の視点から繰り返し語られる、性の絶頂への賛美。それを「人生で最も幸せな瞬間」と言い切る“無邪気さ”。女への思慕は、女の美しさ、とりわけベッドの上で見せた美しさに直結したものだ。そして女との思い出の品を、まるで子供が拾った貝殻や石ころを大事にするかのように、レストランの紙ナプキンに至るまでひとつひとつコレクションしていく“子供っぽい純真さ“。*1そんな風にして、ともすれば女性、とりわけフェミニストサイドから物言いがつきかねない描写・発言が繰り返される。

 しかし、当惑、嫉妬、ためらい、悦び・・・さながら実験動物の行動と反応を観察するかのように、男の性と内面の動揺を詳細に丹念に描写していく筆致は、いかにもパムックらしい。エロティックであるべき場面でさえ、エロティシズムとは無縁なディティールの連続として描かれている。

 また、1970〜80年代当時の、特にイスタンブールブルジョア階級の社会・文化・経済的状況と、男女間の関係、性道徳、とりわけ処女性に関する、登場人物の言葉を借りたパムック自身の「社会人類学的考察」はなかなかに興味深い。

 
 以下に、注意を惹いた箇所を紹介してみたい。

 ―ケマルが母親に、フュスンと出合ったことを話したとき

「ああ、そうそう。あのシェナイのお店で働いているんだったわね、ネスィベの娘は。哀れなこと!」と母は言った。「バイラムにだって、あの人たちはもう顔を出しやしない。あの美人コンテストが悪かったのよ。毎日、店の前を通りがかるのだけれど、可哀相な娘に声をかけるなんて、思い浮かびもしないし、その気にもなれないわ」
 (中略)
 「ネスィベったら、ご主人に内緒で娘の歳をごまかし、あのコンテストに参加させたのよ。」母は、その一件を思い出すにつれ、いっそう腹を立てて言った。「幸いなことに落選したから、恥を晒さないですんだけれど。(中略)この国で、美人コンテストに参加する娘たちが、どんな娘たちなのか、どんな女たちなのか、誰でも知っているわ・・・」
 母は、フュスンが男たちと寝るようになったことを、匂わせていた
 (p.16〜18)


 ―事務所で婚約者スィベルと愛し合うことについて

いかに現代的で、ヨーロッパ仕込みの女性の権利だのフェミニスト風の言葉をいかに用いようと、「秘書」についての考えはというと、母親のそれと変わらないスィベルは、「ここで愛し合うのはよしましょうよ。自分がまるで秘書にでもなったかのように感じるの!」と時々訴えたものだ。しかし、事務所のレザーソファーの上で愛し合う際に彼女のなかに感じた臆病さの本当の理由は、もちろん、あの時代にトルコの娘たちが結婚前に性交渉を持つことへの怖れであった。
 (p.19)

*1:このような男の単純さ、純真さ、無邪気さ、幼稚さを[Masumiyet]という言葉で表現しているとも言えるだろう。

"Masumiyet Müzesi"を読む(1)


 現在、47ページ。

 それが自分の人生でもっとも幸福な瞬間だったとは、気づいていなかった。気づいていたら、この幸せを守れたし、すべてがまったく違った方向へ進んだのだろうか?そう、それが人生で一番しあわせな瞬間だと分かっていたなら、決してその幸福を手放しはしなかったろう。

 
 1975年5月26日月曜日、午後2時45分頃。主人公ケマルが若き恋人フュスンと初めて結ばれたときの記憶から、この物語は始まっている。ケマルの鮮明で詳細な記憶をもとに、ケマル自身が語り手となるようなかたちで滑りだすこの物語は、それ自身がケマルによる、フュスンとの、ふたりの思い出のコレクション、つまり「博物館」のようなものだ。


 タイトルの“Masumiyet Müzesi”は日本語でどう訳されるべきか、つらつらと考えている。
 すでに英語では“The Museum of Innocence”、ドイツ語では“Das Museum der unschuld”、フランス語では“le Musee de l’innocence”と訳されているように、多くの西洋諸語ではほぼ一対一訳が可能になるが、日本語に訳す場合、訳語選択が決して容易ではない。*1

 Masumiyet(=Masumluk)とは、辞書訳ではこうなる。1)無実、無罪、潔白 2)純粋、純潔、純真、無垢、純朴、無邪気 3)幼児
 物語の主題から考えれば、1と3は該当しないだろう。*2明らかに2番目の意味にあたるが、さて、どう訳出すべきか・・・。*3

 若き青年が美しい娘に当然のごとく恋焦がれるように、フュスンを追い求めるケマルの男性性を「純粋」「純真」という言葉に託すこともできようし、またこの物語が“処女性“つまり“純潔”をも取り上げている*4ことから、「純潔」という言葉に(逆説的?)意味をもたせることもできるだろう。
 いずれにせよ、読了した後に再考すべき意味深いタイトルである。

*1:日本語は語彙が豊富な反面、各語の意味が限定的だとつくづく思う。

*2:30歳になるケマルが18歳になったばかりの娘に恋をし性関係を持つ。このような関係、ケマルの娘への執着を“罪“と見做すかいなか・・・という意味で「無実」と訳せなくはないだろうが・・・。

*3:ちなみに一連のパムック作品の翻訳者、和久井路子氏は『無邪気な博物館』という仮題をつけてらした。

*4:が、物語に登場する女性たちは、誰も彼も実際には“純潔”でなどなさそうだ。そもそも何をもって“純潔”とするか、という問題もあるが。